デ・ジ・キャラット論

〜たぶん、これが、到達点


 アニメ「デ・ジ・キャラット」は必見の作品である。もしあなたが「アレってゲームショップの宣伝アニメでしょ?」「単に美少女キャラが可愛いさだけが売りの作品だろ」とか思っているのなら、その認識はすぐさま改めた方がよい。これは、たぶん、我々がここ30年来培ってきた漫画・アニメ、プラスゲームを含めたオタク文化の「到達点」なのだから。

 「デ・ジ・キャラット」の基本設定はこうだ。「デ・ジ・キャラット星から大女優になることを目指して地球にやってきた猫耳少女"でじこ"が、秋葉原にあるゲームショップ・ゲーマーズの店員として活躍する」

 たったこれだけの設定の裏に、いったいどれだけの量の文化的バックグラウンドが存在する事か。まずは「宇宙から来た少女ヒロイン」という部分。本来ならこれは「非日常の世界からやってきた異物」として丹念に描かれるべき部分だが、本作では第1話の冒頭2分くらいだけであっさり処理されている。もちろんこれは「うる星やつら」やら「天地無用」やら、この設定を使ったたくさんの先行作品があるので、視聴者にとっては「逆にもう普通の事だよね」という前提条件があるから成立するわけだ。「大女優になる」という目的部分も「ようこそようこ」の影響がかいま見えるし、「猫耳」という普通に考えたら奇異なモノを素直に受け入れるには、同人誌的文化の素養が必要だ。
 さらに「昔は電器街として栄え、今はゲームソフトやキャラグッズショップといった一大オタク街に変貌しつつある秋葉原という町」「ときめきメモリアルやセンチメンタルグラフティやTo Heartのヒットによって、ゲームキャラの周辺グッズというものが売れるようになり、その専門店としてゲーマーズが誕生した」というような事も知識として持っていなければ、さっき挙げた設定は理解不能なのだ。

 しかし「デ・ジ・キャラット」がオタク文化の到達点というのは、これだけの理由では無い。次に絵の方を見てみよう。でじこの顔は目が非常に大きく、口は小さく、前髪は流れ、いわゆる「アニメ顔」の典型というか基本を押さえたデザインになっている。そして猫耳帽子にしっぽ、更に手袋とブーツも猫のイメージである。付け加えてコスチュームは「メイド服」。同人誌的に人気の高い「ネコミミ萌え」「メイドさん萌え」という要素をきっちり押さえているのだ。(ただし、でじこは性格的にはまったくメイドさんタイプでは無いのだが)
 ところで気になるのは、でじこの頭部デザインである。大きなネコミミ、三つの鈴、そしてさらに本来の目の他に、ネコのうつろな目までついているのである。(余談だが、この「うつろな目」には吾妻ひでおの描くところの「ナハハ」などのキャラに通じるものがある)
 本来の漫画のキャラクターの作り方から言えば、このトレードマークの多さは異常なのである。たとえば「大きな鈴を付けた女の子」というだけでも、キャラクターは成立するハズである。「To Heart」のマルチは耳のアンテナだけがポイントであるように。
 こういう過剰なデザインのキャラというのは、本来はシリーズが長く続きすぎたため、ゴテゴテといろんなオマケを付加されていって、末期的な状態の時に発生するものである。例としては最初はシンプルなデザインだったセーラームーンが、シリーズが進むにつれて色替えの「スーパーセーラームーン」やら羽根の生えた「エターナルセーラームーン」と変化していったのを思いだしてもらえるといいだろう。
 しかし、でじこはこれ以上もう何も付け足せないほど、登場時から過剰であり最終形態なのだ。もちろんでじこには「以前のシリーズ」など無いが、その代わりになっているのがこれまでに何十本となく制作された美少女キャラアニメやらギャルゲーやらの歴史そのものなのである。

 絵柄の変化についても考えてみよう。でじこはアニメ内で、きちんと描きこまれた絵で可愛らしく媚びている事もあるし(ビデオパッケージの絵などがそう)、3等身のギャグキャラにも変化するし、脱力感を表現する時には「すごいよ!!マサルさん!!」調のきわめていーかげんな描線の"ダバ絵"にまで崩れるなど、千変万化なのだ。さらに同一画面上に描きこまれた絵とダバ絵なキャラが共演している事もある。私達はもうすでにこういう表現にも慣れてしまっているので驚かないが、実は「違う絵柄の混在」というのはアニメが長年かかってたどり着いた進化の果てなのである。
 もともとの漫画・アニメというのは、ギャグものはギャグっぽい絵、劇画は劇画調の絵、というように極めて固定された世界であった。それが70年代末に同人誌・ファンジンというものが発生した際に「高い等身のキャラを可愛くデフォルメして描く」という遊びが生まれ、漫画ではたがみよしひさの「軽井沢シンドローム」あたりから取り入れたと記憶している。それでも当時は「キャラが見分けにくい」と不評だったのだ。
 やがて単なるファンの遊びだったキャラのディフォルメは「SD(スーパーディフォルメ)ガンダム」などで商業的にも成功し、一般にも受け入れられるものとなった。
 またアニメにおける「2種類の絵柄の混在」というのは「銀河漂流バイファム」(83年)で、大人キャラはシリアスめな絵柄、子供キャラは鳥山明調、と使いわけたあたりが最初であろう。「軽シン」のように同一キャラのシリアスとギャグバージョンの2種類が存在し、それが同一画面の中でポンポン変化しても、違和感の無くなったのは「きんぎょ注意報」(91年)くらいからか。こういう事をうまくこなすのには抜群の演出センスが要求されるのである。
 そう、演出センス。アニメ「デ・ジ・キャラット」には明確なストーリーは存在しないと言ってよい。「むかつくと目からビームが出る」やら「ほかほかごはんはおいしそう」とか、論理より感覚的な世界が中心なのだ。しかし感覚だけで世界を構築するのは、逆に演出家には高いテクニック・センス・計算が要求されるのである。そういう意味でも「デ・ジ・キャラット」は一朝一夕には成立しない。最近は韓国のアニメプロダクションもがんばっているが、今の彼らには実直で誠実な「レストル」は作れても、軽やかでいい加減な「デ・ジ・キャラット」を作る事は不可能であろう。
 なぜなら「デ・ジ・キャラット」に到達するためには、過去の作品「きんぎょ注意報」と「セーラームーン」とか「クレヨンしんちゃん」とか「赤ずきんチャチャ」とか「こどものおもちゃ」とか「はれときどきぶた」とか「機動戦艦ナデシコ」とか「すごいよ!!マサルさん!!」とか「アキハバラ電脳組」とか、あと宮崎駿も押井も富野もGAINAXも東映作品も含め、歴代のアニメがやってきた実験とか試行錯誤とか慣れとか成果とか購買層とか、そういった巨大なバックグラウンドが必要だからである。
 ついでに言っておくなら「デ・ジ・キャラット」で使われているギャグはブラックで不条理で、オチはあまり重要視されない事が多い。これまた吉田戦車とか立花晶とかうすた京介とか中崎タツヤとか唐沢なをきなどの漫画が、切磋琢磨し進化し競争し普及し浸透している日本という土壌あって出てきたものである。英国の一筋縄では行かないヒネくれた気質と伝統あってはじめて「モンティパイソン」がありえるように、文化の厚みの無いところでは、こういうギャグ表現がいきなり出現することは無いのだ。

 さぁ、もう一度ビデオで「デ・ジ・キャラット」を観てみるとよい。我々が30年かかってたどり着いた地点はたぶんココなのだ。そやつはネコミミで、なおかつ「ほかほかごはんにょ〜」とか言っててちょっと情けない気分になるが、もともと私たちの作った文化はそんなにカッコよくは無いのだから。
 今、現実の秋葉原では巨大なゲーマーズの「でじこ看板」が辺りを睥睨し、西武線には社内をピンクや黄色の派手な宣伝ポスターで埋め尽くされた「でじこ電車」が走っている。いったい誰がこんな未来を予測できたろうか? 21世紀のユートピア(デストピアか?)を支配するシンボルが、語尾に「にょ」をつけて喋る奴だなんて。

○蛇足
 しかし、もう一つの巨大文化圏であるアメリカも、ディズニーやらワーナーやらハンナ・バーベラやらに、あとアメコミヒーローとかスターウォーズとかスタートレックとかで出来上がった文化に、日本産のパワーレンジャーやセーラームーンが影響して産まれた究極の姿が「パワーパフ・ガールズ」という、「デ・ジ・キャラット」に極めて似た地平に辿りついている辺りが非常に興味深い。
 「アイアンジャイアント」とか「サウスパーク」なんかと日本アニメ比べてる場合じゃねえっすよ。真のライバルはPPGなんだから。


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