眠田直のコレにハマった(18)

追悼・コミケと私



 2006年10月1日、漫画評論家にしてコミックマーケット準備会代表の米沢嘉博氏が肺がんにより永眠されました。まずはコミケの一参加者として、謹んで哀悼の意を表したいと思います。

 この訃報を聞いて思い浮かんだのが、これまでの20年以上に渡るコミケの思い出の数々。
 私がコミケに初めてサークル参加したのは1983年。まだコミケが夏と冬だけじゃなくて春コミがあった頃のお話です。当時は東のコミケ、西のコミール(コミックバザール)なんて言われてましたっけな。
 その頃は大阪に住んでいて、ミンキーモモのアニパロ同人誌を作り、関西の即売会ではちょっとばかし名が売れてきた、まだ駆け出しだった私。ここでいっちょう全国の即売会の中心・コミケで一旗上げるぜ!とばかりに意気揚揚と東京に乗り込みました。(うーん、なんだか「こみっくパーティ」の猪名川由宇みたいだね。)
 最初に驚いたのはその規模。まだ晴海の一会場だけと、今の東京ビッグサイト全館開催に比べたらささやかなものでしたが、それでもサークル数1500に参加者は1万人以上。この数の多さというのがコミケの特徴でして、人が多くて混んでるわ行列してるわ、夏は暑いわ冬は寒いわ。何が凄いかって参加者の熱気が違うのよ。あらゆる同人誌即売会の中でも特別だったんだ、コミケっていうのは。これは当時、神戸や名古屋や岡山やらの即売会にも遠征してた私が言うんだから間違いない。
 私の作った同人誌も好調にハケまして、売れる冊数も大阪時代とは段違い。84年に出した「がんばれ!!ミンキーモモ!!」という本などは増刷に増刷を重ねてついに5000部突破!今ではこれくらい売れてる同人誌も結構あると思いますが、当時としては記録だったと自負しております。
 それからはもう毎回のコミケの度に上京して、結婚して埼玉に出てきてからも同人誌作りの魅力に取り付かれたまま、コミケ参加を続け、いつの間にやらコミケットも第70回。「コレにハマった!」的に言うなら、これほど長い期間に渡ってハマり続けているものは他に無いですね。自分が作った本を、お客さんの顔を見ながら直接売るっていう行為には、プリミティブな魅力があるんですよ。

 さてそんな私がコミケット代表の米沢氏にお会いしたのは、時は流れて2002年の第2回日本オタク大賞の審査員としてでした。このイベント、収録がトーク居酒屋のロフトプラスワンだったので、ほろ酔い加減の米沢氏が終始上機嫌で、漫画の話をされていたのがとても印象的でした。それだけに今回の急逝が残念でなりません。
 だってあの広大な東京ビッグサイトいっぱいに、3日間に3万5千のサークルブースが並び、50万人もの参加者が訪れる、こんな世界的にも稀な、壮大にして熱気あふれるイベントを作り上げた人なんだよ! 日本人は米沢嘉博氏の事をもっともっと評価すべきです。


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